2022/9/25の礼拝
9月25日(日)10時30分より
メッセージ:「共に苦しみ共に喜ぶ」
聖書:コリントの信徒への手紙一 12章12-26節
説教者:小野慈美牧師
※どなたでも視聴できます。
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「教会」と訳されているギリシャ語は「エクレーシア」です。もともとは、「呼び集められた者たち」という意味で、広い意味での「集会」を指します。この言葉が、キリスト信者の集まりにも用いられるようになり、日本語では「教会」と訳されるようになりました。教会は、信仰者の集まり、つまり皆さんのことなのです。そして、この群れは単なる集まりではなく、体、しかもキリストの体であるのです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です(27)。
<共に苦しむ>一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ(26)
体の様々な部分は部品ではありません。部品は切り離しても、それ自体で存在できます。しかし、
「部分」は、他の部分から区別はできても、体から切り離したら、命を失ってしまいます。私たちが互いに体の部分であるということの特質の一つが、
「共に苦しむ」ということです。つまり、他の部分の痛みや苦悩を他人事としてではなく、同じ体につらなる大切な部分の痛みとして互いに受け止め合うということです。今は直接会うことが難しいですが、互いのために祈ることも「共に苦しむ」ことの姿です。
<共に喜ぶ>一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ(26)
もう一つの特質が
「共に喜ぶ」ことです。共に苦しむよりもたやすいように感じますが、実際には簡単ではありません。他の人の賜物を素直に喜ぶことは難しいものです。人間の組織では、誰かが自分より優れていることを知りながら、自分のポジションを譲りたくないゆえに、他の人の賜物を生かそうとしないことが起こります。競い合いがあります。プライドがぶつかります。妬みや縄張り争いが起こるのです。このようなことは教会の中でも起こりえます。初代教会にもそのような問題があったのでしょう。
<互いに相手を自分より優れた者と考え>
そこで、使徒パウロは、こう勧めています。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え(フィリピ2:3)」。これは、自分には無いものが他の人には有ることを認め尊重し合うことです。ある領域では自分が優れていても、他の領域では、自分には無い賜物を持っておられる方がいる。そのことを喜び合うのです。教会は勝負するところではありません。同じ領域で自分より優れた賜物の方がいれば、素直に認めて譲ったら良い。ねたんだり、ひがんだりするのではなく、その人の賜物が神様に用いられるのを喜ぶのです。そして、自分は自分で、できることを感謝してすればよい。また、年齢に応じて、役割も変わってきます。教会の中で、ある役割をずっと担当してきたような場合、「これは私の役割だから、口出すな」と言って、分かち合おうとしないことは起こり得ます。状況が変われば見守る役になれば良いのです。立場や役割が変わっても、自分がキリストの体の部分であることの尊さは変わらないのだという誇りを持つことが大切です。これは傲慢ではなく、神から与えられる自己肯定感です。
共に苦しみ、共に喜ぶことは、決してたやすいことではない。罪の故です。罪とは、悪事を働くことではなく、自己中心です。その意味で教会は罪人の集まりです。しかし、驚くべきことに、その罪人の集まりを、主は
「キリストの体」と呼んでくださる。つまり、理想からは程遠い、不完全で自己中心的な私たちであるにもかかわらず、主イエスは、教会を「私の体」と呼んでくださるのです。また、今、礼拝堂におられない方々も、インターネットを通して共に礼拝し、祈りに心を合わせる時、既に体の大切な部分です。主イエスは言われます。「誰が何と言おうと、あなたも私の部分なのだ。私につながっていなさい」と。
前 奏 ― 主の教会は ただひとつ ― Satkz
招 詞 詩編143編5節 (下記)
賛 美 讃美歌21-409 すくいの道を
主の祈り
賛 美 ― きけよ、愛と真理の ― 聖歌隊
聖 書 コリントの信徒への手紙一12章12-26節 (新約p.316)
祈 祷
黙 想
説 教 「共に苦しみ共に喜ぶ」 小野慈美牧師
祈 祷
賛 美 讃美歌21-393 (1,3) こころを一つに
献 金 (※礼拝献金は、退場の際に、また口座への送金でお捧げください)
感謝祈祷
賛 美 讃美歌21-394 (1,3) 信仰うけつぎ
祝 祷 小野慈美牧師
後 奏
分かち合い・記念撮影・交わりのとき
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わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。(詩編143:5)
<捜真バプテスト教会の創立>
1948年9月26日午前10時30分、120名の出席者により、捜真女学校校舎において初めての礼拝が献げられました。礼拝後、創立記念愛餐会と教会設立委員会が持たれ、名称を「捜真教会」とすること、主任牧師に千葉勇師、副牧師に森島卯之助師が就任することが決議され、また執事等の選任がなされました。こうして福音宣教の業が始まりました。
1955年5月29日に現在の栗田谷の地に会堂を建設し、同時に「教会学校週間保育科」(捜真幼稚園の前身)がスタートしました。さらに1970年3月に現会堂が完成し今日に至っています。
現在、新会堂建築に向けて、準備が進められています。この事業のために心を合わせて祈りましょう。
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