3月12日(日)10時30分より
メッセージ:「ある人に息子が二人いた」
聖書:ルカによる福音書15章11-32節
説教者:浅輪一郎伝道師
※どなたでも視聴できます。
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しばしば「放蕩息子の帰郷」と呼ばれることもあるこのお話から今日は導きを求めます。
ある人に息子が二人いました。二人のうち一人は「放蕩息子」と呼ばれていた弟、そしてもう一人はその弟のことをきっと「放蕩息子」と呼んでいたお兄さんでした。弟は父の生前に財産の分け前の要求をします。そして財産を受け取ると父の元を去り放蕩の限りを尽くします。しかし自分が痛い思いをするようになると、父の元に帰って「悔い改め」ともいえる思いを父親に伝えようとします(11-19)。私たちの場合、このような状況におかれた弟に対しては「自業自得である」とか「痛い思いをして学べばいい」とかと思うことがあるのかもしれません。しかし、中東の文化では「立場のある人が走るということは恥ずべきことである」とされているにも関わらず、父親は自分の元に帰って来る息子を走っていって出迎えます。父親は、息子が口にする悔い改めの言葉を遮って、息子に対する深い憐みを口に出します(20,
22-24)。
一方で、兄の方は弟が帰ってきた際には、怒って家に入ろうともしませんでした。すると父親は下の息子が帰って来た時に走って出て行ったように、今度も急いで出て行って上の息子を「なだめ」ました(28)。ルカ8:41では、ヤイロが死にかけている自分の娘のためにひれ伏してイエス様に家に来て下さるようにと「願った」のですが、この「願う」と訳されている言葉が「なだめ」るという言葉と同じになります。父親はヤイロが自分の娘の命を救う為にひれ伏したように、一心不乱に上の息子に対しても、「お前は私の大切な子どもなんだ」と、「どうか、そのことを分かってくれ」と懇願しました。しかし兄は、「自分は奴隷にように父に仕えて来た」と父親に不満をぶつけ続けました(29-30)。
この二人の息子を振り返ってみますと、「放蕩息子」呼んでいた方、呼ばれていた方、いずれであっても、結局はこの二人に「そこまでの違いはない」と言えるのかもしれません。何故なら、確かに弟は物理的に父親から離れていた一方で、お兄さんの方は精神的に父親から離れていたからです。そして今度は、父親の視点でみますと、この二人とは、放蕩息子であろうがなかろうが、やはり結局は、大切な息子であるということにも変わりはないからです。
その大切な子どもたちが帰って来る。理由はともあれ父の元に帰って来る。
24節と32節で父親は、繰り返し、繰り返し、「息子は死んでいたのに生き返った。だから私は嬉しい」と口にしていたことが記されていましたが、その意味とは、父親は、いいえ、イエス・キリストの父なる神様は、御子であるイエス・キリストの十字架における死と復活によって、そのことを信じる者にも、「死んでいたのに生き返る」ということが起こり、そのことが、神様にとっては何よりもの喜びであるということであるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(ヨハネ:3:16,17)
前 奏 ― 血しおしたたる ― J. パッヘルベル
招 詞 詩編130編1-2節 (下記)
賛 美 讃美歌21-291 み神の座を捨て(1,3,5)
主の祈り
聖 書 ルカによる福音書15章11-32節 (新約p.139)
祈 祷
黙 想
説 教 「ある人に息子が二人いた」 浅輪一郎伝道師
祈 祷
賛 美 讃美歌21-444 気づかせてください
献 金 (※礼拝献金は、入退場の際に、また口座への送金でお捧げください)
感謝祈祷
賛 美 讃美歌21-25 父・子・聖霊に
祝 祷 小野慈美牧師
後 奏
分かち合い
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深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
(詩編130:1-2)
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