11月19日(日)10時30分より
メッセージ:「キリストの平和」
聖書:マタイによる福音書27章27-44節
説教者:浅輪一郎伝道師
※どなたでも視聴できます。
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キリストの平和についての導きを三つお話します。
1.キリストの平和は沈黙から示される
人々は多くを語ります(39-44節)。しかしイエス様は、人々が憎しみや怒りといった感情に囚われ、そして侮辱/罵りといった言葉で満ちていた時に沈黙を貫いておられました。しかしこのイエス様の沈黙がかえって「本当に大切な事とは何であるのか?」ということを示します。それは、イエス様がもはや多くを語らなくても、これまでに語られてきた「お言葉」とこれまでになされてきた「業」が既に十分に示してきたということのかもしれませんが、そのことに加えて、イエス様の沈黙が、たとえ皮肉であっても人々を導いて語らせていくのです。 「今、ここで十字架に掛けられている方が神の子である」と。そして 「この方こそが、その死と三日後に起こる復活によって平和をもたらすお方である」と。
2. キリストの平和は暴力からは生まれない
人々は憎しみや怒りに身を任せると手を挙げる(26:67,27:30)、剣(つるぎ)を取る(26:47,51)、そして今の時代につながっていくような武器を取る。しかしイエス様はそのような力は用いられませんでした。暴力は用いられませんでした(26:52)。それでもなお、あえてここで「力」というものを持ち出すのならば、イエス様は暴力よりもっと強い力を用いられたということになります。そしてその力こそが、「癒し」であり(22:50,51)、「赦し」でありました(23:34)。
3.キリストの平和は拡がる
アランの『幸福論』に「悲観主義は気分であり、 楽観主義は意志である」という言葉があります。もし、この言葉に私たちが今日導かれていますことを当てはめてみますと、憎しみや怒りに任せた侮辱/罵り/暴力が、気分や感情によるものであるということになります。一方で私たちは戦争のような辛い現実を前にすると、「遠く離れた所で平和を祈り求めるなんて楽観的すぎる」と思いたくなるようなこともあります。しかしこのアランの言葉に、同じように私たちが今日導かれていますことを当てはめてみますと、平和の場合は「意志」であるということになるのでしょう。しかし、その意志は「イエス様のご意志」であります。そうしますと、その意思とは、強く、揺らがず、そして人々の心に、「拡がっていくもの」であるのです。
前 奏 - 主よ、この時代に - H. フォーゲル
招 詞 マタイによる福音書7章12a節(下記)
賛 美 讃美歌21-454 愛する神にのみ (1,2,3,7)
主の祈り
聖 書 マタイによる福音書27章27-44節 (新約p.57)
祈 祷
黙 想
説 教 「キリストの平和」 浅輪一郎伝道師
祈 祷
賛 美 こどもさんびか34 キリストのへいわ
(へいわ、ゆるし、きぼう)
献 金
感謝祈祷
賛 美 讃美歌21-27 父・子・聖霊の
祝 祷 小野慈美牧師
後 奏
分かち合い
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だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
(マタイ7:12a)
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